カニ・スクリーム

現実のほうがフィクションより価値があるなんて、誰が決めたんだ

光が見えない

光が見えない。
 最近感性が死んできてるのか美少女のイラストとか見ても何も思わなくなった。昔はあんなに「良い!」なんて言って沢山保存していたのに、今はそういうフォルダの中身をひたすら削除してる。そうやって光の純度を高めていく。残ったものには光を感じるのか?そのはずなんだが。
 光が見えない、というより、感情が昂ぶることが少なくなったってほうが正しい。それはポジティブな感情だけじゃなくて、ネガティブな感情もそうで、なんとなく嫌だな~みたいな感情が常に続いてる。特に自己嫌悪がずっと続いてる。自己憐憫とかって偽善って意地悪な言葉だよな。言う方は気持ちいいけどな。それは俺もそう。

 あんまり感情が動かんって話。Vtuberをよく見るようになってから思ったことで、みんなリアクションが結構デカい。もちろん「Vtuberだから」っていうのもあると思うんだけど、みんな感情の起伏が大きいように感じる。つまり、喜ぶときにはハデに喜び、悲しいときはハデに悲しむってこと。でもこの問題って完全にイメジの弊害だよな。と思った。『幻影の時代』でブーアスティンが述べたように、メディアが演出するイメジによって現実が作られてる。特にVtuberなんてその最たるものだろ。だからみんな”疑似イベント”ってだけで、「案外みんな感情の起伏がないのかもな」と、もこうが録画と間違えて生放送やったやつ見て思った(いつもはギャーギャー言ってる彼が、ほぼ無言だったから。)

 まあ、その話はおいといて今の俺はあまり喜べないし悲しめない。以前の自分と比べると本当にそうだから。自分の気持ちに嘘をつくなとか言うけど、自分の気持ちに嘘付きまくってたら自分の気持ちがわからなくなっていった、的な。何の話だっけ?


 それなりにショックだったVtuberの中身騒動もまあなんかキレてたんだけど、正直大したことなかった。Vtuberの中身問題にキレ散らかす自分っていうロールプレイングを楽しんでるとこもあるし。勿論本心だけどね。ネット上でも人にどう見られるかみたいなことを考えすぎている。そういうところがこの言い訳じみた文体にも出てるってわけ。こうしたほうが面白いだろって常に思ってやってるけど、自分のタメになることは一切してない。床オナもシンクにおしっこするのもめちゃ面白いが、別に自分のためではない。たちが悪いのは誰も俺に床オナもシンクにおしっこも頼んでないってこと。なんか周りのみんなが仕事できて生きがいもあるみたいな人が多くて、一々勝手に凹んでは自分を卑下してる。「私立文系Fラン」は嘘じゃないけど、俺ができない理由でもないよな。

 

※2020年5月14日追記

 光見えました